Data Note · OECD Average Annual Wages

日本の実質賃金は、なぜ35年間停滞しているのか

OECD「平均年間賃金」(1990–2025年、実質・自国通貨建て)を用いて、日本を含む主要8か国(韓国・米国・英国・豪州・フランス・カナダ・イタリア)の実質賃金の推移を比較した。結論を先に言えば、35年間にわたり実質賃金がほぼ横ばいなのは日本とイタリアだけであり、日本の停滞という事実は指標の選び方によらず頑健である。ただし、その「停滞の幅」の読み取りには統計上の注意がいる。

韓国
+107.7%
米国
+53.4%
英国
+47.2%
豪州
+39.3%
カナダ
+37.9%
フランス
+34.6%
イタリア
−2.1%

実質平均年間賃金の1990年比変化率(2025年時点)

実質賃金が上がらないのは、主要国では日本とイタリアだけ 実質平均年間賃金の1990年比変化率(%、自国通貨建て・2025年基準価格)
図1: 実質平均年間賃金の1990年比変化率(%、自国通貨建て・2025年基準価格)。グラフに触れる(またはフォーカスして左右キー)と各年の値を表示。ドイツは再統一の影響でOECD系列が1991年開始のため対象外。出所: OECD, Average annual wages(データセット DSD_EARNINGS@AV_AN_WAGE)より作成。データ(CSV) · 静止画版(PNG)

データについて

データはOECD SDMX API(データセット DSD_EARNINGS@AV_AN_WAGE)から取得した実質(2025年基準価格)・自国通貨建ての平均年間賃金系列で、各国とも1990年を基準(0%)とする累積変化率に変換している。自国通貨建てのため、為替レートの変動は比較に影響しない。それぞれの国の労働者が「自国の物価に対してどれだけ購買力を得たか」を測る指標である。

OECDの平均年間賃金は、国民経済計算(SNA)の賃金・俸給総額を経済全体の雇用者数で除し、フルタイム当量(FTE)に調整した1人当たり年間賃金である。実質化には家計最終消費支出デフレーターが用いられる。日本で報道等によく使われる毎月勤労統計(毎勤)の実質賃金指数とは、分子・分母・デフレーターのすべてが異なる点に注意が必要だ。

このグラフを読むうえでの注意

  1. 「−1.2%」を個人の賃金低下と読んではいけない

    本グラフの日本の−1.2%を「フルタイムで働き続けた個人の実質賃金が30年間で低下した」と読むのは不正確である。これは経済全体の平均値であり、働く人の構成の変化(パートタイム化など)の影響を含んでいる。

  2. パートタイム構成効果が残っている

    日本のパートタイム比率は約13%(1990年)から32%前後(近年)へ上昇した。パート比率の上昇は「労働時間が短い」「時間当たり賃金が低い」の二つの経路で平均賃金を押し下げる。OECDのFTE調整は前者を除去するが、後者(時給構成効果)は残る。賃金総額を総労働時間で除した時間当たりベースで見ると、日本の実質賃金は小幅なプラス成長になるとの分析が多い。停滞幅は「頭数ベース < FTEベース(本グラフ、ほぼゼロ) < 時間当たりベース(小幅プラス)」の順に緩やかに見える。

  3. 労働時間の減少が数字に混入している

    日本の年間労働時間はOECDベースで1990年の約2,030時間から近年は約1,600時間へと大幅に減少した。年収ベースの停滞の一部は、賃金率の停滞ではなく労働時間の減少を反映している。

  4. デフレーターの選択で下落幅は変わる

    OECDは家計最終消費デフレーター(連鎖方式で上昇率が低めに出やすい)を用いる。毎勤はCPI(持家の帰属家賃を除く総合)で実質化しており、上昇率が高めに出やすい。この違いだけでも、2022年以降のインフレ局面では毎勤の実質賃金の方が機械的に大きく下落する。

  5. 韓国の急伸にはキャッチアップ効果がある

    韓国の+107.7%は、1990年時点の賃金水準が低いキャッチアップ局面から出発していること、自営業から雇用者への構成シフトが大きかったことを反映している。「伸び率」の比較であって「水準」の比較ではない。

ここからわかる日本経済の停滞

停滞の輪郭 — 1997年が分水嶺

時系列を追うと、日本の実質賃金は1990年代前半には緩やかに上昇し、1997年に+3.7%のピークをつけた。転機はその直後である。1997〜98年の金融危機(北海道拓殖銀行・山一證券の破綻)を境に賃金は失速し、2002〜03年にはマイナス圏に沈む。以降四半世紀にわたり、日本の系列は−2%から+3%の狭いレンジを出ることがなかった。同じ期間に米国・英国・豪州・カナダ・フランスは35〜53%、韓国は100%超まで積み上げている。

これは「一度の不況で下がった」のではなく、「上がる力そのものが失われた」ことを示している。他国もリーマン・ショック(2008年)やインフレ局面(2022年)で足踏みや低下を経験しているが、その前後で成長トレンドに復帰している。日本と、そしてイタリアだけが、そもそも復帰すべきトレンドを持たなかった。

停滞の構造 — 何が賃金を抑えたのか

本データと調査ノートの整理から、少なくとも三つの構造要因が読み取れる。

第一に、雇用構成の変化である。パートタイム比率が13%から32%へ倍増したことは、平均賃金を機械的に押し下げると同時に、日本の労働市場が「賃金を上げる」のではなく「雇用を増やす(守る)」方向で調整してきたことを示唆する。デフレ下の企業は雇用維持を優先し、その代償として賃上げが抑制された。

第二に、デフレとの相互作用である。物価が上がらない経済では名目賃上げの必要性が乏しく、賃金が上がらないから消費も物価も上がらない、という循環が1990年代末から約20年続いた。実質賃金がゼロ近傍で「安定」していたのは、名目賃金と物価がともに凍り付いていた結果である。

第三に、インフレ転換後も実質賃金が追いついていないことである。2022年以降、日本の系列は−1.6%(2023年)、−0.7%(2024年)、−1.2%(2025年)と3年連続で1990年の水準を下回った。春闘での名目賃上げ率は30年ぶりの高水準と報じられるが、経済全体の平均で見た実質購買力は、この系列上ではまだ1990年を回復していない。

もう一つの停滞国 — イタリアはなぜ上がらないのか

8か国のうち、日本(−1.2%)とともに1990年の水準を下回るのがイタリア(−2.1%)である。その停滞には、日本と共通する土台と、イタリア固有の仕組みの両方がある。

共通する土台は生産性の停滞である。イタリアの労働生産性は1990年代半ば以降ほぼ横ばいで、時間当たり生産性の伸びは30年間で約6%にとどまるとされる。従業員20人未満の零細企業が雇用の約6割を占める産業構造が、ICT投資や規模の経済を通じた生産性向上を妨げてきた。

イタリア固有の要因は賃金決定の仕組みにある。OECDやBruegel、CEPRの分析によれば、民間部門の雇用契約のほぼすべて(約97%)が全国一律の産業別協約でカバーされる一方、賃金を個々の企業の生産性に連動させる企業レベル交渉は大企業に偏っている(労使協議会を持つ零細企業は7.5%にすぎない)。その結果、賃金が企業や地域の実態から切り離され、生産性の高い北部と低い南部に同じ賃金表が適用されるといった歪みが生じた。産業別協約の更新はしばしば大幅に遅れ、2025年初の時点でも民間労働者の3人に1人が失効済みの協約の下で働いていた。名目賃金の改定が止まったままインフレが進んだ結果、2022年以降のイタリアの実質賃金は主要先進国で最大の下落(2021年初比で約−7.5%)を記録した。加えて、労働コストの約45%を税・社会保険料が占めるOECD最高水準の「税のくさび」が、手取りの伸びをさらに抑えている。

つまり両国は、生産性が伸びない産業構造を共有しながら、賃金が上がらない経路は対照的である。日本ではデフレ下で雇用維持を優先する調整が名目賃金を凍結させ、イタリアでは硬直的な全国協約と更新の遅延がインフレ下で実質賃金を目減りさせた。物価が上がる経済でも上がらない経済でも、賃金決定が企業の生産性や労働市場の実態から切り離されていれば実質賃金は停滞する — 両国の併走はそのことを示している。

それでも残る事実

測定上の注意をすべて織り込んでもなお、「比較8か国のうち35年間ほぼ横ばいなのは日本とイタリアだけ」という定性的な構図は、分母(頭数・FTE・時間)やデフレーターの選択によらず頑健である。時間当たりベースで小幅プラスだとしても、同じ基準で測った他の6か国との差は歴然としており、日本の一人当たり実質購買力の停滞は動かない。

前節で見たとおり、賃金停滞は日本固有の現象ではない。一方で、フランス(+34.6%)やカナダ(+37.9%)が着実に賃金を伸ばしていることは、先進国であること自体は停滞の説明にならないことも示している。

厳密な議論のためには、頭数ベースの賃金変化を「時間当たり賃金要因」「労働時間要因」「構成要因」に寄与分解して示すことが望ましい。それが今後の課題である。

補論: 賃金停滞とポピュリズム — 相関はあるのか

本ページ執筆時点(2026年)で、比較8か国のうち実質賃金が1990年の水準を下回る日本とイタリアでは、ナショナリズムやポピュリズムの色彩を帯びた政権が続いている。イタリアのメローニ政権(2022年〜)は右派ポピュリズム政党の出身と分類されるのが通例であり、日本の高市政権も、首相自身はナショナリスト保守と評されることが多いものの、ポピュリスト政党と分類されることのある維新との連立の上に立ち、在野では「日本人ファースト」を掲げる政党が躍進した。この一致は偶然だろうか。

ただし、単純な図式はこの8か国の中だけでも崩れる。平均実質賃金が+53.4%伸びた米国に、ポピュリズム研究で最も引用される政権が存在するからである。この逆説を解く鍵は「平均」と「分配」の区別にある。実証研究の総括(Guriev & Papaioannou 2022)によれば、ポピュリズム支持を押し上げるのは平均賃金の水準そのものではなく、経済的不安、相対的な没落、衰退地域への集中といった要因である。本ページのグラフは平均値であり、米国の+53%の陰にある中央値の長期停滞や旧工業地帯の衰退は見えない。政治を動かすのは平均ではなく「取り残された層」の体験だ、というのがこの分野の共通理解である。

経済的ショックとポピュリズムの相関自体は、かなり確立された実証結果である。金融危機の後には極右政党の得票が約3割増えること(Funke, Schularick & Trebesch 2016)、貿易ショックを強く受けた地域ほど政治的分極化が進むこと(Autor らの米国研究、Colantone & Stanig の欧州研究)、失業や緊縮財政が制度への信頼を毀損しポピュリスト票に転化すること(Algan らの欧州危機研究)が知られている。イタリアはその教科書的な事例で、長期停滞・緊縮・ユーロ制約への不満が2018年の「西欧初の全面ポピュリスト政権」を経て現政権につながった。一方の日本は、長年「停滞してもポピュリズムが台頭しない国」という謎として研究されてきた。高齢の有権者構成、低い移民比率、包括政党としての自民党などが理由に挙げられるが、本グラフで日本が3年連続マイナス(2023〜25年)に沈んだ時期と政治の変化が重なることは、停滞が長い時差を伴って政治に波及し始めた可能性を示唆する。

留意すべきは因果の向きである。ポピュリスト政権の下では15年間でGDPが約10%低くなるとの推計(Funke, Schularick & Trebesch 2023)があり、「停滞がポピュリズムを生み、ポピュリズムがさらなる停滞を生む」という悪循環のリスクが指摘されている。もっとも、8か国という標本で統計的な因果を語ることはできない。日本とイタリアの併走は、実証研究の文脈に置いたときに示唆に富む一致、という以上でも以下でもない。

参考: 5年ごとの推移

日本韓国米国英国豪州フランスカナダイタリア
19900.00.00.00.00.00.00.00.0
1995+2.9+30.6+2.6+5.7+2.9+5.6+0.2−4.2
2000+2.2+35.6+17.9+22.5+13.5+12.0+10.1+0.8
2005+2.9+59.2+23.4+38.3+22.4+20.4+14.3+3.2
2010+1.3+68.0+29.7+43.2+30.8+28.3+24.1+5.1
2015+0.5+75.5+35.8+42.6+36.2+32.4+31.3+1.9
2020+1.0+101.4+50.2+45.5+41.3+29.8+38.2−3.8

実質平均年間賃金の1990年比変化率(%、自国通貨・実質)。全期間の年次データはCSVファイルを参照。